ruma’s diary

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ネアンデルタール人の歴史⑦/巨石への畏敬について

 

 

 

『怪』角川ムック本より抜粋

荒俣宏/霊の世界史・ネアンデルタール人の歴史

 

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⑦巨石への畏敬について

 

 

コリン・ウィルソンをまつまでもなく、太古に発展した魔術の機能は、霊による自然のコントロールであった。

コントロールとは、またしても核心的な用語である。

 

ネアンデルタール人は、シンボルの呪術化には後れをとったとしても、自然を霊的にコントロールする技術は持っていたにちがいない。

 

それも、アフリカに住んだ先祖にまで遡り得る古い魔術を。

 

おそらくその魔術は、命を護り子孫を繁栄させるという生物らしい願いに関わったものであったろう。

 

ではどのようにして?

その一例が、巨石による大地のコントロールである。

 

 

アフリカに住んだ旧人、あるいはそれ以前の原人たちは、生活した地域が狭く、しかも食糧の豊富な土地にいたといわれる。

 

つまり、かなりの期間におよぶ定住が行われていた。

 

反面、放浪や長旅に出ることは少なかったかもしれないが、すでに方位や季節についての知識を得ていたことは大いにあり得る。

 

現代的にいえば、環境意識とでもいえるだろうか。

というのも、彼らが現生人類と同じく洞窟に暮らし、一部の植物を栽培し、日照の具合を考慮し、他のグループとの間に境界を設定していたらしいからである。

 

これは定住のための原始的な地相占術といってよい。

 

たとえばネアンデルタール人が住んだトルコ地方の洞窟の状態を見ると、だだっ広い砂原に屹立(きつりつ)する丘や岩壁の裂け目や穴が住居に選ばれている。

よく目立つのと同時に、よく護られた場所なのである。

日本の城でいえば、中世の山城といった趣のところが多い。

 

それにしても、こうした定住を継続させる原因となったものは何であるか?

 

いうまでもなく安全と繁栄である。

 

この二つの必然的願いを実現する力が、定住地になければならない。

それが大地のエネルギーであった。

 

げんだいのの生物学者エドワード・O・ウィルソンは『バイオフィリア』という評論の中で、人類のもつ故郷への焦がれについて、いかにも学者らしい洞察を行なった。

 

 

ウィルソンは人間の体がその故郷であるアフリカの熱帯サバンナで暮らせるように進化したことを、多くの証拠から認めた。

二足歩行と集団で行う狩猟は、まさにサバンナと呼ばれる広い草原地帯にふさわしかった。

 

では、精神面ではどうか?

人間の精神も、もともとサバンナでの生活に向くようにできていたのではないか。

 

【サバンナの風景を眺める者の遺伝子に中には、それを美と感じる何らかの感覚が潜んでいると考えられはしないか?】

と、ウィルソンは提唱している。

 

そして、サバンナを特徴づける眺めとして、

 

①広々としていること

②遠くを見張るための崖や丘、あるいは安眠の場となる穴や木立があること、

③川や湖があること、

の三要素を挙げた。

 

【……この三つの要素を一つにしてみよう。

人間は、住む場所を自由に選べる時はいつでも、近くに川や湖、海などが見え、木々が点在する開けた場所に好んで住む。

この世界共通の傾向は、いまでは狩猟・採集生活の切実な必要からもたらされたものではなく、多くの意味で審美的なものと化し、芸術やそ造園にインスピレーションを与えている。

(中略)

また、自由な時間があると、海岸や川べりを逍遥(しょうよう・散歩すること)する傾向も見られる。

 

そうした状況に置かれた人々は、水辺に沿って遠くの丘や高い建物を捜し、そこで聖地や美しい場所、史跡を発見しようとする。】

 

ウィルソンは、いみじくも「聖地」と書いたが、それはことの真相に触れている。

 

ネアンデルタール人も含めて、彼らが生活の場を選ぶときに用いた感覚こそ、「聖地の感覚」であった。

 

しかもその裏づけが、故郷サバンナの母なる風景にあったとすれば、聖地のもつ意味は更に明確となる。

 

広大な草原、丘、そして水辺、

確かにこの三要素はどんな民族にとっても「楽園(パラダイス)」のイメージとなる。

 

だが、我々は今、とりわけ重要だと思われる「丘」に着目したい。

 

丘とは、象徴的な意味で「目立つ場所」「見張れる場所」を意味する。

 

狩猟の時にはここから猟場を見渡し、戦の時はここに立て籠る。

そして旅をする際には、この丘が里標や道の目印となる。

 

しかしネアンデルタール人たちはここに「聖地」という決定的な意味づけを加えた。

 

その意味は、霊が宿る場所、ということである。

 

そしてこの聖なる丘は、更にコンパクトな地形として、よく目立つ岩や木立をも「聖地」の領分へ引き込んだ。

 

ここに、岩や木を崇拝する最初の「聖地信仰」は芽ぶくことになった。

 

 

興味深い事実を少し記しておく。

 

一般に聖地と呼ばれる地点は歴史的に連続性をもつ。

例えばカルメル山やデルフォイモン・サン・ミッシェル、グラストンベリといった聖地は、なにもギリシア文化やキリスト教文化が普及した後に聖地となったのではない。

 

どの聖地も先住民族たちがーーー更にそのまた先住民族たちが同じように聖地としたところだった。

 

その一例であるエジプトの大ピラミッドは、近年の調査によりすでに数千年も前から聖地であったことが証明された。

スフィンクスが大ピラミッドよりも数千年前に築かれていたからである。

 

また聖地デルフォイは、緑濃いギリシアの山腹にあり、地中から噴出する聖なる蒸気を浴びた巫女が預言を行う場所として、古代ギリシア最大の敬意を集めるアポロンの聖地であった。

 

だが、この聖地は古代ギリシアの時代よりもさらに古くから一種のシャーマニズムが実行される聖地であったといわれる。

 

アポロンの神よりも更に古い神の住まう聖地であった。

 

ちなみにいえば、太陽神アポロンもまた古い伝承を有し、元来は北欧や中近東やエジプトなど広い範囲で信仰された太陽神の焼き直しであったとも言われる。

 

霊と交感できる聖地は、古代から特別の場所に定められており、その特別な場所とは、ウィルソンが力説したように、「人間精神に働きかける三要素のイメージを備えた場所」なのである。

 

 

多くの聖地に、星との関わりがあるという事実も考えておかなくてはならない。

 

エジプトの大ピラミッド群はオリオン座を写した配置をもち、また中国の都の配置が北斗七星を表し、更に聖地には隕石が落下したとの逸話が必ず残されている。

 

これはまさに宇宙霊との交感が可能な場所であることを裏づけている。

 

シャーマニズムは、交感すべき強大な宇宙霊と繋がっているこのような聖地でしか成立しなかったのである。

 

また別の視点もある。

 

最近イエール大学の古建築史家ヴィンセント・スカリーが、ギリシアや中東の聖地を巡礼し、共通して認められる聖地風景ポイントを三つに絞り込んだ。

彼によれば、少なくとも前2000年までの聖地には、

 

①周囲を閉ざされた谷、

②北か南に円錐形の塚か大岩、

③目立つ山頂(とりわけ峰が二つある山)を地母神の象徴と理解した。それは大地の乳房なのである。

 

おそらくこの三つの要素は、ネアンデルタール以来の聖地のイメージのうち、「丘」の部分をさらに具体的に特徴づけるものだろう。

 

霊が宿る地形、シャーマニズムが成立する地形に欠かせない要素の一つとして、「二つの峰のある山」が発見されたことは、まことに興味深い。

なぜなら日本でも「二上山(ふたかみやま)」と呼ばれる古代の聖山が多いからである。

 

たとえば古代のレイラインとして発見された「太陽の道」(淡路島から伊勢を結ぶ北緯34.5度のラインに位置する聖山、二上山三輪山は、スカリーの発見を補強してくれる。

 

二上山は、死後の浄土をあらわす聖山であり、春分の日には二つの峰のあいだに夕日が見事に沈む。

 

この二上山は、オオナムチ(大国主神)と少彦名命(すくなびこなのみこと)が創ったといわれ、「太陽の道」の発見者・小川光三氏によればオオナムチはオオアナミチ(大穴道)を語源とすると推定している。

 

大穴道とは「天岩戸」のことであり、太陽が沈む地下の穴をあらわす。

 

太陽を乳房といい換えれば、まさに地霊が宿る土地といえるだろう。

 

 

このようにして、聖地はあらゆる形の神話的意味づけを与えられた。

 

与えたのは、ネアンデルタール人クロマニヨン人を最後の末裔とする原始の人類であった。

 

幸いにも、我々現生人類も類感魔術を手に入れたことにより、より積極的に霊をコントロールし、ネアンデルタール人を絶滅へと追い込むことができた。

 

しかし勝利者となったクロマニヨン人の末裔である我々ですら、今や霊との交感をも拒み、また聖地に暮らすという人類として最も基本的な霊的生活をも忘れ果てようとしている。

 

その傾向は、大ピラミッドが建設された6,000年ほど前から顕著となり、今や「霊の世界史」の最終的局面ーーーそれも悪い意味での最終的局面に差しかかろうとしているようだ。

 

とすれば、これから本誌上に於いて多くの人々に語られるであろう「霊の世界史」は、最初からい

一種の衰退史、没落史の様相を呈することのなるかもしれない。

 

なるほど、我々が今なお無意識に楽園を探し続けるのも、道理というものかもしれない。

 

 

 

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