ruma’s diary

優しく豊かな世界へ共に。

ネアンデルタール人の歴史①/はじめに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水木しげる氏が陣頭指揮を取って発刊していた『怪』というムック本に載っていた記事を転載したいと思います。

すごく面白い記事なんです。

 

ずっと、これは多くの人に読んでもらいたい…!と思っていました。

 

 

 

いつ発売の『怪』だったかは記録とってなくて…分からず、すみません。

 

 

 

人類の歴史は分かっていないことの方が多く、この記事に書かれていることもどこまでが本当かは分かりません。あくまで、この当時の荒俣先生の解釈としてお読み下さい。

 

読み易いように、多少、段落を分けたりしています。

 

 

 

 

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◆はじめに

「霊の世界史」を構築しなければならない、それも今すぐに、

 と主張された最初の覚醒者は、水木しげる翁であった。

 

このことばを二年前に聞かされたとき、まさに電撃に打たれる思いであった。

 

「霊の世界史」とは、真の意味における全人類史のことと言ってよい。

 

これまでの人類史、世界史は、まことに偏った、身勝手な学問であった。

 

第一に、歴史の主体は言語をもち文明をもった現生人類に限られていた。

それもせいぜい一万年をさかのぼる程度の時間的広がりしかない。

けれども、現代型ホモ・サピエンスが地上に出現したのは、最近の科学的調査によれば、少なくとも十万年以前のことであるという。

 

とすれば、我々の世界史とは、実に我々自身の歴史のわずか10分の1を扱っているに過ぎないことになるのではないか。

 

第二に、これまた最近の発見によって、現代型ホモ・サピエンスとは明らかに別系統の人類であるネアンデルタール人にも、高度な文明が存在したことが認められるようになった。

 

ネアンデルタール人は三万年ほど前に絶滅しており、その意味からしても人類史は少なくとも二系統の歴史を語らなければならなくなった。

 

では、

なぜ従来の世界史がそうした広大な真の人類史を取り扱えなかったのだろうか。

 

原因は史観にある。

歴史を語る視点にある。

 

それは基本的に文献にもとづいた「記録の研究」であり、地下から掘り出される遺物や、人々に口から口へと伝承されてきた神話・伝説に注目するものではあり得なかった。

 

そのために19世紀に入ると、考古学や民俗学といった非歴史学的に人類史を研究する分野が誕生した。

だが、それでもまだ、真の人類史を語り尽くすには一貫した視点が不足している。

 

記録や文献では、我々の歴史は一万年程度しか遡れない。

しかし、遺物から判明する文明的な技術や造形によっても、せいぜい数万年前までの歴史しか見通せないであろう。

 

そこで、人類がまだ人類になる前まで我々の記憶を遡るには、どうしたら良いのか。

 

現代の我々と、十万年前の人間とを共通の物差しで測り得る視点とは何か?

 

技術とか文明を基にしたのでは、あまりに違いすぎて今と十万年前とを直接比較できない可能性がある。

 

ところが我々は歴史を語るのにとてつもなく重要な視点を忘れていた。

 

それは霊についての知識である。

現代人が十万年前の祖先から最も純粋な形で受け継いでいるものは、人体を除けば霊の概念しかない。

 

霊に注目しなければならない所以である。

霊魂観こそは、我々人類がはじめて人類であることを自覚した瞬間に、早くも高度な完成を見ていたはずである。

 

この霊への関心を尺度として人類史を眺める時、我々はようやく十全な「十万年の世界史」を展望できるのではあるまいか。

かくて、霊の世界史!と名づけられた法外な試みは開始される。

 

これこそは水木しげる翁をまって初めて構想され得た領域であるといえる。

 

水木翁より第一回目の論述を依頼された筆者もまた、喜びをもってネアンデルタール人クロマニヨン人の精神史を語るつもりでいる。

 

 

 

 

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②に続く